この本自体は1年半ほど前に読んだのだが、今回改めて、映画を観た。
映画の方が深みが無い。一人ひとりの人物像の描き出しが弱い。当然時間制約があるのだから仕方ないのであろう。多少変わっている部分もあったのだが、脚本の大筋に変更は無い。
この映画については、よく尋ねられる。本だけでも質問に対しては答えられるのだが、観た人が、どの場面で何を感じたのかは私も興味がある。それで観たのだが、観ていて気付いたことがあるので、このストーリーに使われているトリックについて触れておきたい。
1.ダビンチという人物については、殆どは知らない。しかし、モナリザを描いた「偉い人」だという知識は学校で教えられる。さらには、なんでモナリザが凄いかということも殆どの人は知らない(一部の美術を専門とする人は別としても・・・)。そこにトリックがある。ニュートンも出てくるのだが、なぜか人は「偉い人」の考えていることは「正しい事」というわけのわからない結論を出しがちである。これを妄信と言う。ダビンチやニュートンは思想家でも哲学者でもない。いずれも広義の科学者だ。科学的に聖書を読んでいたことは容易に想像できる。従って、ダビンチが信じたことは正しい事と結論付けるのは誤りである。
2.最後の晩餐・・・この絵を用いて、あたかも聖書の言っていることを表現している絵のように説明するのだが、「最後の晩餐」は「写生したわけではない」ということである。どこに横一列で食事をする者があろうか?絵にぶどう酒が描いてないから、最後の晩餐ではぶどう酒を飲まなかった、と結論付けてしまうのもおかしいのだ。「ダビンチはそう考えていた」ことの確認に過ぎない。(ちなみに、ニュートンのAppleという単語を使っているが、リンゴが木から落ちたことで万有引力を思いついたというのは、ただ単に、ニュートンの部屋の窓からリンゴの木が見えたというだけで作られた話。)
この2点を中心に据えて、読むなり観るなりしてもらいたい。私は、ダビンチコードに関しては否定はしないが、肯定もする気はない。その研究はやりたい人がやってくれ、という考えだ。
聖書を読む上で、科学者はいくつかの過ちをおかす。それは「真理=真実」という捉え方をしていることである。真理と真実の区別ができなければ、聖書を信じるということは、ただ聖書の中の「世界観」を信じるに過ぎないし、それは信仰ではない。聖書には天動説が書かれているし、男尊女卑の世界でもある。矛盾もある。何も科学的に証明されていない時代であるから、そういった記述になることは必然であろう。そんなことを信じても仕方の無いことだ。キリスト者というのは(少なくとも私は)そういう世界観を信じるのではない。その世界観を突き崩そうとしている人たちがおり、残念ながら、その世界観を崩されることを恐れているキリスト者もいる。
良い例がアメリカの「進化論」教育論争だ。時代遅れも甚だしい。この議論は、日本では明治時代に内村鑑三が新聞紙上で激論を交わしている。日本では既に議論し尽くされているのだ。それは幸いにも、違う世界観(神話)が日本にあったからで、聖書に書かれていることをそのまま真実ということには、ならなかったからであろう。しかも札幌バンドの面々は農学を専攻し、科学者的な素養を持っている。そして、宮部金吾は植物(生物)学者。この問題は日本では初期段階で消化させていた。
真理と出会うことは、真実を見つけることとは異なる。魂の解放は真実では解決できないのだ。見えない神の手に自分が手を伸ばすことによって真理が与えられ、解放される。
ただ、キリスト教の弁護みたいになっているので付け加えておくが、歴史上、一番悪いことをしたのはキリスト教であるし、良いことをしたのもキリスト教である。キリスト者だから正しい人ではないし、キリスト者だから悪い人なのでもない。戦争が絶えないのは、そういう事実認識が無いからでもある。「キリスト教を信じている人」が正しいと考えてしまうと、他宗教が誤りだと盲目的になる。これはキリスト教信仰ではない。キリスト教を信じるのは、「キリスト教団体」が正しいからではないし、「キリスト教を信じている人」が正しいからでもない。キリスト者というのは神が正しいと信じるのであって、信じている自分が正しいと信じてはいけないのだ。
第二次世界大戦を経て、日本はその辺の分別ができていると思う。「信教の自由」というのは天皇制に反対するためにあるわけではない。自分と信条が異なったとしても、あらゆる信条を尊重することが、自分の信条を守ることだということを歴史的に知っているのだと思う。