2006年6月 2日 (金)

「学問のすすめ十七編」(最終回)

この箇所(特に2)は非常に面白い。自分のためになる他に、自分の周りの様々な人の顔が浮かんでくる。それは必ずしも良いことではないが、そうしたほうがわかりやすい、ということはある。今回で最後だが、できるかぎり楽しめるように紹介しよう。

1.人望

 人は普段から人にあてにされる(人望)ような人でなければ、何の役にも立たない。人望は智恵と徳があって得られる。しかし、そうではなく、智恵も徳も無いのにヤブ医者が玄関を立派に見せて金儲けをしたり、読めもしない「原書」が飾ってある学者(笑)、人の観ているところでは難しいものを読んでいるふりをするが、家に帰ると寝るだけの者、などなど。このためか、智恵と徳をもつ人の中に「世間に栄誉を求めない。それは虚名にすぎない」と言う人もある。しかし、それは栄誉の本質を取り違えている。極端なケースで「栄誉は虚名」としてしまうのは早計だろう。栄誉、人望は自分から求めていくべきものである。しかし、人望というのは自分に適した評価であることが大切である。また、人望や栄誉を隠すことは世の中の損失である

2.言葉と表情と人付き合い

 人望を得るためにいくつかのことを心得なければならない。まず、言葉をよく学ばなくてはならない。文字を書いて自分の意思や考えていることを伝えるのは大切なことである。話が下手な人は概して語彙がとても少ない。次に、明るく元気な顔をすることが大切である。相手を威圧したり、へつらい笑いをして近寄ったり、お世辞を言うのは嫌われる。また、ニガ虫を潰したような顔で何を言っても無表情、いつも父母の葬式に出ているような顔は最も嫌われる。人の顔は家で言えば玄関のようなものである。言葉遣いや顔つき、そして態度をよくすることは、人として徳の一つとして常に心がけなければならない。しかしこれは表面を飾ることだけではない。それも一理あるが、過度の虚飾は人のつきあいの弊害にしかならない。孔子の言う「過ぎたるはなお、及ばざるが如し(行き過ぎても、足りないものと同じく良くない)である。さらには、人と交わるには、古い友を忘れず新しい友を求めていかなくてはならない。多方面の人と接し交際を広げることは人生に役立つものだ。

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2006年6月 1日 (木)

「学問のすすめ十六編」

1.独立すること

独立には2つある。1つは有形のもの。物についてである。簡単に言うと、人から物を貰わないということ。これは目に見えるものであるからわかりやすい。2つめには無形の精神の独立である。物に支配されてしまい、心の独立ができない。これには、他人のものに支配される、他人の好みと同じ物でなければならない、という物に心が支配されている状態の人がいる。

2.志を高く持つ

理論と実践は両方が適切に行われなければならないが、理論で終わる人が多い。人の心の中の思いと活動の2つの面からこれらが互いに助け合って一致することで人に有益なものをもたらすのである。

第一に、心の中の思いが高くなければ行動も高まっていかない

第二に、「役に立つ・有用な行動」を選ぶことで、無駄なものが無くなるー囲碁や将棋を研究しても仕方ないー

第三に、行動を規制するものを自分で作っておき、時と場所も考える

第四に、行動と理想のバランスをとるー理想が高すぎてもいけないー

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2006年5月27日 (土)

「学問のすすめ十五編」

ー信じることと、疑うことー

盲信して生きる世界には嘘や偽りが多くなり、いろいろと疑問を持って生きる世界には真理が多い。その疑問の論争の中にこそ真理がある。

何を信じ、何を疑うのかにつき選択する能力が必要である。学問の要というのは、その選択をするための智恵を身につけるためにある。

しかし、日本人が昔から続いていた習慣に疑問を抱いた原因は、開国して初めて西洋諸国の文明に接し、圧倒され、これを真似ていこうとしているところにある。人々は西洋のことを信じすぎているし、昔から引き継いできた日本のものについて否定しすぎているようである。西洋のものと日本のものとどちらが勝っているかまだはっきりとわからない。

例えば、ここに一人の若者がいたとする。この少年はある先生に接して心酔し、先生の通りに真似しようと決めた。そして一日中机に向かって勉強するのはいいとしよう。しかし、若者は先生のすべてを真似したために、先生の夜の付き合いと朝寝坊する癖まで学んでしまい、健康を害してしまった。これは、良し悪しを自ら判断することなく、全てを真似ようとした結果である。

このように、今の改革、進歩主義者たちが日本の旧習を嫌い、拒絶し、西洋のものを何でも信じようとするのは、全く軽率なことだと言わなければならない。日本と西洋とはよく比較し、信じるべきものは信じ、疑うべきものは疑い、取り入れるべきは取り入れ、捨てるべきは捨てるように、難しくても正しく判断していかなければならない。

正しい判断力をつけるために、私たちはさらに学ばなければならない。

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2006年5月25日 (木)

「学問のすすめ十四編」

PLANーDOーSEE

思ったとおりにいかなかったり、計画したとおりにならない。それは計画段階では目標というのは常に大きくなりがちだからである。すべて生き物のように変化して予測は難しいし、事の難易やどのくらいの時間がかかるかをよく考えないからに他ならない。

計画を立てて実行するならば、定期的にそれを点検しなければならない。点検とは、計画したもののうち、これまでに何が成し遂げられて、何が成し遂げられないのか、そしてその利益と損失を自分で計算する必要がある。流れにまませ、自分の状況を注意、点検しないことが失敗の原因である。

世話

世話という言葉には2つの意味がある。一つは「保護」の意味であり、もう一つは「命令」の意味である。双方がそろって初めて「世話」と言える。政治についても同じことが言える。

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2006年5月23日 (火)

「学問のすすめ」十三編

ー他人とよく交われば、人間関係もよくなるー

怨望(人を恨み、不平に思うこと)ほど害の多いものは無い。欲張りや贅沢は人の自然な求めであるし、悪口も人に対しての反論ということもある。これらは一概に不道徳とは決められず、本質・強弱・向かう方向によって判断しなければならない。しかし怨望は不道徳以外の何ものでもない。怨望の心は諸悪の根源であり、内に隠れて出るものには「内緒話・密談・陰謀があり、外に向けて爆発するものとしては、徒党・暗殺・一揆・内乱などがある。

物事を相談するときに、伝言や手紙ではまとまらないような話を、直接会うとうまくいくこともある。また、もし機会をつくってあげて、殺す者と殺される者とを数日間、同じ場所にいさせて、互いに隠すことなくその思っていることを全て話し合ったら、いかなる敵仇でも和解するだけでなく、無二の親友となることもあるだろう。このように観ていくと言論や行動の自由を妨げるのはただ政府の弊害ではなく、私人間にもあることであり、学者においても例外ではないのだ。

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「学問のすすめ」十二編

―心も学力も国のレベルも、どんどん高めていかなければならない

学問の要は活用できるかどうかにのみある

学問の道において大切なことは、読書や観察(observation)・推論(reasoning)による「知識の蓄積」は勿論であるが、そこで終わってしまう愚か者が多い。この知識の蓄積に加えて、「知識の交換」(ディベート)と「知識を他に広める(著作・演説)」も大切である。外へ向けた学問を放置してはいけない。

ここでは私たちの実践にある「プレゼンテーション」「小論文」といったものの重要性が問われている。勿論重要なのだし、今後も力を入れたほうが良いと考えているが、しかし、ここで大前提となっている「知識の蓄積」という点ではどうであろう?知識の蓄積無くして「知識の交換」と「知識を他に広める」作業をさせてはいないだろうか?空回りというより他無い。

見識と品行を高尚にする

物事の是非がわかることと、実行することとは別物である。物事の是非がわかることというのは、難しいことを口にすることではない。それでは現実から離れて全く役に立たない。また、見聞を広くすることでもない。実行が伴わないからである。実行の伴う見識を身につけるには、物事の状況をよく比較して考えることであり、高いところを目指し、自己満足に陥らないことである。

特に「見識と品行を高尚にする」という箇所では具体的に以下の例を挙げている。これは私たちにとって非常に重要な視点となる。

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現在日本の学校において学校を評価するのに「この学校の風紀はこうである」とか「あの学校の生徒管理はこうである」とかを中心に見ているようである。そもそも風紀とか生徒管理とはどういうことなのだろうか。校則が厳しくて、生徒たちが悪い方向に走らないように管理を行き届かせることであろう。しかし、これが学問の美点といえるのだろうか。私はこれを見ると恥ずかしく思う。

西洋諸国の風紀は決して美しいとは言えないし、醜い面も多い。しかし、学校を評価するのに風紀の良さや生徒管理の行き届いていることを基準などにしていない。学校の名誉は教えている学問のレベルが高いこと、教え方に優れていること、学内の人物の品行も高く、議論している内容も低俗でない、ということである。

だから学校を経営する者や学校に学ぶものたちは、他の低俗な学校と比較するのではなく、世界中を見渡してその中の一流の学校と比較して良い悪いを判断しなければならない。

風紀が良くて、指導が行き届いているのも学校の長所の一つではある。しかし、その長所は学校として最低限の長所であって、何も他に誇るようなものではない。一流の学校と比較するためには、他にも考えなくてはいけないことが沢山あるはずである。だから風紀や管理のことを学校の急務と考え、それがうまくいったとしても、決して満足してはいけないのである。それは一国の状況についても当てはまることである。

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ここで学ぶべきことは、「風紀が整ってきた」とは本校でもよく聞く話である。しかし、そこに安心しているのが現実なのではないだろうか?諭吉はそれは愚か者だと言う。諭吉は順序を意識していないが、私は①風紀を良くし、②学内の人物の品行を高くし、③教え方に優れ、その上で、④学問レベルを高くしていかなければならないのではないかと思う。ネットの書き込みでは【公立は「お前ら」というのに対し、本校は「君たち」と呼びかけていることに好印象を受けた】との記述もある。もう一歩前へ進み出ようではないか。

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2006年5月21日 (日)

「学問のすすめ」十一編

-人が心から動く理由-

 上の者と下の者の関係は親子のような関係が望ましい。しかし、社会において上下関係を親子のようにしようとしても、それは他人であるから不可能である。確かに理想的ではあるが、社会の関係に親子関係をあてはめるのは難しい。親のような想いで、良かれと思ったことを強引に実施し、強制的に恩を施そうとする。これが、専制政治が行われる原因になっている。だからこそ、必ず規則や約束をつくるのだ。それが法律となるのである。

例として、

ある商店において、店で一番の物知りな主人がいて、この主人一人が元帳を扱っている。番頭や手代はというと、自分の与えられた仕事には励んでいるが、商売全体のことはわかっておらず、ただうるさい主人の指図どおりに働き、給料のことも仕事のことも、ただ、主人にしたがうのみである。商売がうまくいっているかどうかを元帳を見て知るわけでもなく、一日中主人の顔色をうかがって、その顔に笑顔が浮かんでいれば儲かっているとわかり、しわを寄せていれば儲かっていないとわかるくらいである。ただ、一つの心配は、自分が預かっている売上台帳に、いかにごまかした数字を記入するかだけである。鷲の目のように鋭い目をした主人でもそこまでは見抜けない。主人は彼らを律儀で真面目なだけの者と思っている。しかし、突然いなくなるか死んでしまうかした後に帳面を調べてみて、取引に大きな穴を空けていたのを見つけて、いかに人間が信頼できないかについて嘆くことになるのである。これは人間が信頼できないというのではなく、自分ひとりがすべてを支配していたことが引き起こしたことなのである。

これが、社会にごまかしや偽りなどの病気を招いているのだ。

この編には、非常に感銘を受けた。うちの職場はこういったことが生じないように民主的職場を作ってきたのではなかったか?しかし、現実はどうであろう?全体像が見えなくなり、その役割が全体にどう影響するのかが見えないがゆえに、ごまかしや偽りとまではいかないまでも、補い合い・支えあう風潮が薄れてきているようにも感じるのだが・・・

社会にニセ君子が出てくる理由

人と人との関係はすべて、親子と同じ関係にはなれない。

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2006年5月20日 (土)

「学問のすすめ」十編

―人生に希望をもって、大いに学べ-

個人には、衣食住の充足を実現し、独立・自立する義務がある。しかし、これで満足してはいけない。ただ単に人に迷惑をかけない程度に独立自立しているという「個人的義務」を果たしたに過ぎない。これに加えて「社会的義務」も果たさなければならない。小さな安定に満足してはいけない。傍観する者であってはならない。

その「社会的義務」とは、日本人としての名誉を辱めず、国民がともに力を尽くし、日本に真の自由・独立の地位を確立することである。世界を見よ。自分のやりたいことで自分の人生の成功と社会への貢献を成し遂げなくてはならない。志を高くもち、難しいことに挑戦しよう。未来への希望、明るい望を決して失ってはいけない。

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2006年5月18日 (木)

「学問のすすめ」九編

ー志を高くもち、社会に貢献する人となれー

第一 心身の働きによって衣食住の安定を得ること、これを自分一人の人間としての働きをいう。

「自分で汗を流して、自分の食を手に入れよ」といわれてきたことだが、この教えはただ、人を鳥や獣よりも劣るものにしないという、それだけのことである。鳥や獣、魚や虫、すべて自分で食を手に入れている。アリにいたっては、先のことまで考えて穴を掘って巣をつくり、冬の日のための食料を貯えているほどだ。世の中には、このアリと同じことをやっているだけで満足している人もいる。

第二 人間の性質は群れをなして集まる傾向があり、一人で独立して生きるのを好まない。

アリと同じ事をして満足するのではなく、人として本来の目的(社会の役に立つ)を果たすべきである。私たちの責務は、今この世において生き生きと活躍した跡を残し、これおを永く後世の人たちにも伝えるということである。その責任は重いといえよう。

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2006年5月17日 (水)

「学問のすすめ」八編

ー自分の心と体は自分の幸せのためにあるー

人の心身の特性として①心身をもって自分のことを達成する②知恵を使って物の道理を発明する③欲望を満足させることで幸福を感じる④誠実の心が欲望をコントロールし、行き過ぎないようにする⑤意思をもって事を成し遂げる、があげられる。これらを自由自在に使って一身の独立ができる。しかし、この5つを使うには「自分の分限を超えない」ことが大切なことだ。自分も他人もこの5つの力を使うわけであるから、お互いにその働きを妨害してはいけないということである。

この延長線上にある、社会に様々な悪影響を及ぼすものとして①男女・夫婦の上下関係、②親子の上下関係、がある。①については、女性は男性に、妻は夫に従うべきという教えがある。②については子は親に従うべき、という教えがある。これらは上下関係の身分から生じる弊害であって、社会に様々な悪影響を及ぼしている。

福沢はこの時代にあって、男尊女卑を徹底的に批判している。女性は男性がどれだけ酒におぼれようと、博打にのめりこもうと、女に深入りしようと、優しく意見する権利しかないのはおかしい、という。この状況を男と女で入れ替えると、どう考えるのか?これは上下関係を徹底するがゆえに生じた女性蔑視だという。そもそも上下関係を徹底し、上にものが言えないというのはおかしいとする立場であるから、男女平等ということを徹底しなければ、社会は良くならないというのもその作用線上にあり、まず、そこから変えなければならないということであろう。

ここの部分も新渡戸の「武士道」と表面上、相反するものがあるように思われるが、それは別議論だと思う。私自身は、どちらも共感できる内容となっている。新渡戸は男女平等を極端に徹底し始めると、日本女性独特の良さも一緒に消えていってしまうことに懸念を抱いたということであろうか。

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2006年5月15日 (月)

「学問のすすめ」七編

ー国民の立場・役割と国家の関係ー

国民は国法を尊重し、人間平等の精神を忘れてはならない。法を正しく守り、他人の権利も侵害してはならない。また、法に不都合があっても勝手に野武ってはならない。不都合がある場合は手順に従って法を改めるべきである。それがゆえに政府の活動をよく見ていなければならない。不安なら穏やかに話し合わなければならない。

公務・公用というのは、その言葉のもとの意味は、政府の仕事は役人の私事ではなくて、国民の代理として国全体のためい働く、公の仕事という意味である。しかし、時に政府はその立場を逸脱して暴政を行うことがある。そのときの国民がとるべき行為として考えられるのは3つある。

1)ただ、政府に屈して従う

2)力をもって政府に敵対する。

3)正しい道理をもって身を捨てる

1)は、人の使命(正しい道に従って生きる)に反し、後世に悪例を残し悪い気風となってします。2)は内乱となり、善悪の問題から力の強弱の問題にシフトしていく。たとえ、成功したとしても、前よりも良くなるとは思えない。

3)は苦痛に耐え、志を挫くことなく正しい道を主張し迫る。採用されなくとも、世間の人々の心に迫り、政府は自らの過ちを悔い、心の底から改心する。

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2006年5月14日 (日)

「学問のすすめ」六編

ー法律は国民が国民のためにつくるものであるから、しっかり守るべきー

政府は国民の代理であって、国民の思うところに従って政治を行う。法治主義というのには2つの意味がある。1つは、国民が法律を作るのであって、政府が作ったものという。2つめには、自らがつくった法律によってのみ自らが制限される。だから国民は法律を守らなければならない。国民が政府に従う、というのは政府の作った法に従うのではなく、自分たちが作った法に従うのである。ここで、日本人に賞賛されてしまう「敵討ち、切捨て御免、暗殺」という国法を無視することがいかに馬鹿なことかを説く。これが当たり前になると、国民全体が不誠実になり、表面上よく見せて、裏で罪を犯しても恥としなくなってしまう。

従って、政府はできるだけ、簡単な法を定め、厳格に実施しなくてはならないし、国民は現実に合わないならば、遠慮せずに論じ、訴えるべきである(自分勝手に法を無視してはいけない)。

 ここの記事は「武士道10ー切腹とかたき討ち」の箇所とは対照的なものになっている。先に出版したのは福沢諭吉の学問のすすめ(1870年代)であり、新渡戸稲造はこれを読んでいたという。ただ、考え方がぶつかっていたわけではない。福沢諭吉は「切腹とかたき討ち」は法治国家として評価すべきものではない(未来)、というのに対して、新渡戸稲造は、海外に日本人を紹介するにあたって、「切腹とかたき討ち」が法の代用とされてきた日本人の気質を説明したもの(過去)である。

 しかし、100年以上前のこととはいえ、この「政府が作った法なのではなく国民がつくった法なのだから守る義務がある」というくだりは、再確認すべきことであろう。

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2006年5月13日 (土)

「学問のすすめ」五編

ー学問を志した者は国のために尽くせー

日本が今(明治7年)まで独立を失わなかったのは鎖国していたからである。しかし、もはや外国との関係なしには存在し得ない。しかし、国の権力は未だ政府が握っており、国民もまた、未だに居候である。確かに政府は、昔とは異なり、権力と力だけではなく、知恵も持ち始め、学校や工業を振興し、形は整ってきた。しかし、形だけである。これらは政府のものであり、国民のものではないし、文明の本質ではない。文明の形だけを見て評価してはいけない。国民の「独立の気力」が大切である。文明の発展のためには、学問を志す者が、本を読むだけではなく、実践・行動し、経験し、勇気と力をもって世の中の悪い気風を突破することが必要である。それを突破し、政府と共に発明や工夫をし、私立・民間で役立つ事業を成功させることが必要である。そうすることで、初めて文明の精神というものが国民の間に浸透していく。

この編は、慶応の学生に向けて語られたものを本にしたもので、「学問のすすめ」の中でも異色とされている。

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2006年5月12日 (金)

七心訓

福沢諭吉の七心訓

1)世の中で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事をもつことです。

2)世の中で一番みじめなことは、人間として教養のないことです。

3)世の中で一番さびしいことは、する仕事のないことです。

4)世の中で一番醜いことは、他人の生活をうらやむことです。

5)世の中で一番尊いことは、人のために奉仕し決して恩にきせないことです。

6)世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情をもつことです。

7)世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことです。

私たちが心に刻みつつ、自分の役割に生かしていかなければならない言葉だろう。

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「学問のすすめ」四編

 日本独立の条件は、今までは国民と政府が離れてしまっていた。要因は国民の無知・無学である。政府は権力を使って脅したり、叱ったりして専制政治を行ってきた。ここで邪魔をしているのは、国民の気風(精神・特質)が変わらないことがある。この気風とは、官尊民卑、官立学校崇拝主義のことである。文明を進めるには、この気風の一掃が必要。一掃するためには、学問を志すものがまず実践し、方向を示さなければならない。その学問を志す者は、政府の管轄する機関に入って官の立場で実践するのではなく、そこから離れて私立・民間の立場で実践するのが良い。

 100年以上前に書かれたものなのだが、今語られているようにも感じる。官尊民卑、官立学校崇拝という気風は、今もなお変わらない。だからこそ、私立・民間で学問を志す者が方向を示さなければならない、というのは、慶応大学創立者としては当然の思想だが、我々私学人にとっても励みとなる言葉だ。また、私たちはそういったことを伝えながら進路指導というものをすべきなのだろう。

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2006年5月11日 (木)

「学問のすすめ」三編

気概そして独立の精神

富める者と貧しい者、強い者と弱い者、国民と政府、いずれも権利においては同等である。つまりは、国と国も同等である。どんなに豊かで強い外国も道理にかなっていれば恐れる必要は無い。しかし、個人の独立なくして真の国家の独立はない。また、その国の国民に独立の気力がないときは、独立した国としての権利を世界に主張することもできない。その理由は次の三ヶ条による。

第一条 独立の気力がない者が真剣に国のことを思うことはできない。

第二条 自分自身が独立できていない者は、外国人と接しても自分の独立の権利を主張することはできない。

第三条 独立の気力がない者は他人に依存しているため、悪事をなすことがある。

本文には、この三ヶ条それぞれに説明が加えられている。

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2006年5月10日 (水)

「学問のすすめ」二編

 「学問」という言葉は意味が広い。知識や見聞を広げるためには、人の話をよく聞き、自分でよく考察し、そして本を読むようにしなくてはいけない。従って、学問をするには茂治を知ることが必要となるが、単に文字を読むことだけで学問をしているということにはならない。文字を読むことができても、物事の道理を理解できない者は、学問をしていると言うことはできない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはこのことである。

この本は「学問のすすめ」と名づけたけれども、決して文字を読むことだけをすすめているのではない。人として世の中を生きていくための心得となるべきものを取り上げて、学問の本当の趣旨・目的というものを示したものである。

ここで諭吉は「学問のための学問」というものを徹底的に否定している。

人はみな平等だが、見た目や生活状況が「同等」ということではない。人として生まれもった権利が「平等」ということである。生まれ持った権利とは、生命を尊重し、私財の財産を守り、人格と名誉を大切にされるということである。この平等の意味をよく理解しないと、弱い者が権利を妨げられてしまう。

学問をしないと、個人の独立ができないので、悪政になり、結局は人としての権利が損なわれる。しかし、学問をすると、個人の独立ができるので、政府と対等の地位を持てる。これは良政に導き、人としての権利が保たれる。

今がそのときか?諭吉の言葉は現代に蘇ることはできるのだろうか?

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「学問のすすめ」初編

福沢諭吉の「学問のすすめ」を読み始めました。まとめながら読んでいこうと思っています。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 すべての人は同じ地位、身分に生まれてきている。ただ、学問に身を入れて物事をよく知る者は偉くて裕福になり、学ばない者は貧しく地位も低い者となるのである。学問とは、役に立たないようなものは後回しにし、実生活に役立つ学問(事実をおさえ、その事実をよく観察し、物事の道理を追求していく)に身を入れていくべきである。

 また、学問をするには自分の分限(地位、能力、やってもよい限界)を知ることが大切である。人は生まれながらにして自由自在に生きている。しかし、分限を知らないでいると、わがまま放蕩の人間になってしまう。自分の分限とは、天の道理にもとづき、人の情を大切にし、他人の妨げをしないで、自分自身の自由を守ることである。自由とわがままの違いは、他人を妨げるかどうかにある。他人に迷惑をかけなければいい、というかもしれない。しかし、それは違う。一人の放蕩は他人の手本となり、ついには社会の風紀を乱し、人の教えをも妨げるものとなる。また、自由独立の問題は人の一身にかかわるだけでなく、一国の問題でもある。学ぶことによって広く物事を知り、自分に相応しい知恵と徳を身につけなければならない。そうすることによって、一人ひとりが自分の役割を果たせるようになり、個人が独立する。個人が独立することによって家が独立し、さらに国家が独立するのである。西洋の諺にある「愚民の上にからき政府あり(愚かな国民の上には残酷な政府ができる)」というのはこれである。法が厳しいか寛大かは、国民の徳と知性に合わせて決まっていくものなのである。

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2006年5月 4日 (木)

武士道13「大和魂」(最終回)

「気概」が大切だという思い。気概とは、自分の大切にする価値や他人や他国に絶対譲れないという気持ちだという。(私は、これを今まで信念と呼んできたが、間違いか?)これは、戦争で利用されることとなる。(価値や真理を隠し)自分の国のために犠牲を捧げよ、と。しかし、本来は、日本人特有の良き精神であることを吟味しなくてはならないだろう、と新渡戸は言う。

この大和魂の解説の後は、今後を観ている。これは説明する必要も無いだろう。

私自身は「大和魂」という響き自体が嫌いだ。それは「大和魂」という言葉自体が、戦争を語る中でしか聞いたことが無いし、天皇と直結する意味で理解してしまう。また、それで自分の夫や子を失った人がいたという事実は消えないからだ。新渡戸が何ぼ「本来の大和魂」を説いたとしても、新渡戸が生きたのは第二次世界大戦前であることもあり、私には「既に意味は変わった言葉」でしかない。それは「自由」という言葉が侵略地で使われるのと、現代の日本の若者が使うのとでは意味が違うのと同じだと思う。

しかし、大和魂の本来の意味を考え、これを「気概」というのであれば、それは良き精神であると思うのである。

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2006年5月 1日 (月)

武士道12「女性」

男女平等社会を求める中で、歴史的には女性は地位が低く扱われてきた、という理解は今もある。新渡戸は果たしてそうだろうか?と問題提起する。

武士道では、女性は家庭を守る、そして貞操を守ることが義務であった。武芸も自分と家庭を守るために身につけていた。常に短刀を懐に秘め、貞操を守りきれないときは、短刀で人を刺すこともあるが、多くは自分の命を絶つためであった(護身用ではない)。自害の方法を知らないことは女性の恥でもあったという(命よりも連れ合いへの忠誠心)。日本女性の貞操観念が無いと指摘を受けることもあるようだが(芸者などのように)、むしろ、逆である。

新渡戸はさらに言う。

あるアメリカの女性解放運動家が「すべての日本の女性は、古い慣習に反逆して立ち上がれ!」と叫んだ。しかし、武士道の影響がなくなるまでは、日本の社会はこうした軽率な考えを受け入れることはしないであろう。しかし、こうした運動は、本当に女性の地位を向上させるのだろうか。この手っ取り早い方法で勝ち得た権利は、今日まで日本の女性が受け継いできた優しさや上品な物腰を失うことに見合うだけの価値があるのだろうか。古代ローマの女性たちが家庭をないがしろにし始めた後に起こったのは、おぞましいほどの道徳荒廃であった。

と。最後にある彼の予言は当たっているのかもしれない。歴史は繰り返すが武士道は繰り返されるのであろうか?

ちなみに彼の妻はアメリカ人である。

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2006年4月30日 (日)

武士道11「刀」

刀は武士の魂とも言われ、大切なものであった。これは、我々現代人が想像するよりも意味があることらしい。

刀は「忠誠と名誉」の象徴であり、5歳のときに本当の刀を渡される。これで、武士の仲間入りをしたかのように自尊心と責任を持ち、15歳で成人すると、自立した行動の自由を与えられる。しかし、刀を無分別に使用する者は卑怯者・虚勢を張る者呼ばわりされる。刀は常に「恥を知れ!」と自分を戒めてくれるものであったようだ。

これは、個人的には「刀依存症」なのでは?という気もしないではないのだが、現代でも携帯電話に見られるのかもしれない。しかし、携帯電話は「恥を知れ!」とは言わないだろう。

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武士道10「切腹とかたき打ち」

キリスト教では大罪とされる自殺の部類に入る「切腹、ハラキリ」は海外では理解されにくいものの一つであろう。また「復讐、敵討ち」欲求は「悪い想い」との認識が強い。それは、最近の報道においても連れ合いが少年に殺されたときに、その判決が「死刑」でなければ被害者家族が納得しない事例が議論になってしまうこと事態がそれを示している。

さて、新渡戸はこの「切腹」と「復讐」は刑事裁判が無い時代には必然的にものであったという。切腹で名誉を守り、復讐で社会秩序を維持していたのが現実であった、と。切腹は、「罪を償う、恥を免れる、自分の誠実さを証明する」名誉として、「復讐」は道徳的公平を維持するための最高裁判所として機能していたようだ。

私は、切腹を「させる側」から、復讐を「する側」から考えることが、日本の思想を複雑化させているのではないか、と思う。

切腹はさせられるのではなく「する」のであって、それを誰も止められるものではない。名誉を守るために行っている面が強ければ、当然そうであろう。

復讐はされる側から考えれば、(この時代は特に)それなりの理由があって、復讐されても仕方が無い、もしくは、復讐される前提で事をすすめていたのではないか。それをルールとするならば、復讐をされる方が悪いのであろうし、復讐されないような生活をしていればいいわけである。

但し、現代は法律があるので、そのようなことも必要無くなった。しかし、誤解を恐れずに言えば、悪事を働くのであれば、それなりの覚悟で悪事を働かなければならない、という社会にしなければならないのかもしれない。

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2006年4月29日 (土)

武士道9「⁅克己」

武士道は克己を目指す。常に心を平静に保ち、自分の役割をきちんと果たす。苦痛に耐え、死を恐れない。礼の精神にもとずいた感情を隠す方法、バランスをとる方法を訓練されていたようだ。

これがゆえに、日本人は表情を顔に出さない、乱れないことが美徳とされてきたようだ。その中で新渡戸の書いた「修養」という本には、克己の心得として大きく6つのことをあげている。

1)朝起きの週間、2)弱点を矯正する(13徳を得る①節制②沈黙③規律④決断⑤節約⑥勤勉⑦誠実⑧正義⑨清潔⑩清潔⑪冷静⑫純潔⑬謙譲)、3)性急の人は時を定めてゆったりとする習慣を養成する、4)憎悪の矯正_他人の長所・短所を観察するように努める、5)憤怒の抑制_癪にさわることがあっても決して怒らない、6)他力による修養_他力を借り、互いに克己する

特に2)については、耳が痛い・・・

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武士道8「教育と訓練」

武士は知識があることが徳にはならなかった。目標は「品格」を高め、「魂」を磨くことに集中した。その教育は「剣術、弓術、柔術、槍術、兵法、書道、道徳、文学、歴史など」であったが、この中に算術としての数学は無い。それは、金に溺れることは卑しいことであり、主に扱うのは士農工商の「商」としていた。本来、兵法にも算術は必要なのだが、この辺が日本の未発達な部分らしい。また、そのように「品格」と「魂」に狙いを定めた教育であったからこそ、教師は尊敬される存在であったし、簡単に誰でもがなることができる職業ではなかったという。

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2006年4月27日 (木)

武士道7「忠義」

「忠義(主君への服従と忠誠)」は他国からはおおよそ賛同されない。しかし、真の忠義とは「主君と意見を異にするとき、血を持って自分の言葉の誠実さを示し、主君の良心に最後の訴えをする」ということが武士道では加わる。自分の良心を主君のきまぐれな意思や思いつきや酔狂などの犠牲にする者に対して、武士道はきわめて低い評価しか与えていなかったのである。「見た目には義務に忠実なようであるが、心の中では自分のことしか考えていなき者」なのである。

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武士道6「名誉」

名誉は人の持つ自然な欲であるが、武士道において、廉恥心(恥と思う心)と裏表的な関係にある。「名」「面目」「外聞」を汚すものは「恥」と考えられてきたのである。その延長で、多くの少年は我が家の敷居をまたぐとき、世に名を成す(富ではない)までは再びこれをまたぐまいと心に誓った。そしてその母親も面会することを拒んだ。そのために武士の少年はどのような貧困や試練にも耐えた。若いときに得た名誉は年を重ねるうちに大きくなっていくことも知っていた。名誉は境遇から生じるのではなく、自分の与えられた役割を果たすことにあったのである。

しかし、この名誉心のいき過ぎは自己中心主義に陥りやすくなる恐れも持つ。時には弱者に対して行きすぎた行動をとりやすくなるからだ。しかし、その行き過ぎは徳川家康の「堪えて忍ぶことが、長く、良い人生を送る根本である。」また、「何事も、悪い結果が出たときは自分を責め、他人を責めないようにするのが良い」という遺訓に、武士が自分を強く戒める寛大さと忍耐を持つことによって相殺されていたことがわかる。

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武士道5「誠」

「誠」は「言(ことば)」が「成(なる)」と書く。つまり「言ったことを成すこと」が「誠」である。先に述べた「礼」は、正直と「誠実」が無ければ茶番である、と新渡戸は言う。

武士は、これまで述べてきたように、「腹の中には何も入っていなくても、ひもじく思っては恥」という、思想的には義勇仁礼などに重きを置いていたため、金に執着することは卑しいこととされていた。そのため、士農工商の最底辺である商業においては、「誠」が商業道徳に浸透しなかったらしい。それは時代劇を見ていてもわかる。

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武士道4「礼」

礼は他人を思いやる心を外に示すためのもの。形に意味があるわけではない。これを意味も無く重視しすぎると、形だけのものとなり、その形が整っていないことを問題にする。

これはキリスト教に同じ考えがある。モーセの十戒である。モーセの十戒は重要な掟だが、それを守ることに意義があるのではない。それを守らなければ「民族」が生きながらえていくことは不可能だったのだ。民族の中で様々な欲が出てしまい、「関係」が壊れることを最も禁じた掟なのだと思う。それが島国の日本にもあったということであろう。

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2006年4月25日 (火)

武士道3「仁」

「仁」というのは、一般に「己に克ち、他に対するいたわりのある心」と解される。武士道でいう仁はもっと深い。「武士の情け」という言葉があるが、この言葉も一般に使われるよりも深い意味がある。その「仁」という考え方だが、その一面として、戦いの礼儀として以下のような暗黙の取り決めがあったことからも伺える。

相手が身分が高い場合か、組み合わせた者と力量が同等の者でなければ地を流さない

弱いものとは戦わない、虐げられたもの、敗れたものへの「仁」は武士に相応しい「徳」として、賞賛されていた。

敗れたる者を慈しみ、傲れる者を挫き、そして平和の道を立てることーーこれが汝の生きる道

新渡戸は、そのような「仁」を徳とするリーダーであれば、封建制も否定しない。そこで専制政治と区別しなくてはならないという。ただ、封建制はいつもそのようなリーダーに恵まれるわけではないというリスクも生じるのも確かである。福沢諭吉の言う「武士による封建政治の愚かさ」も正解だ。両者の述べていることは同値だとも思う。

昭和の時代に「仁」が見直されていれば、もっと日本も変わっていただろうに・・・

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武士道2「勇」

「義」は「勇」よりも重んじられるが、義と勇は双子の兄弟であるという。だから、「義」を知っていながら、それをしようとしないならば「勇」が無いのだ。逆に「義」を全うしようとする「勇」こそが、武士道の言う「勇」となる。もし、「義」が無く、「勇」にまかせて意味の無い武闘をおこすのは無意味ということである。「生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬのが真の勇」であり、「死に値しない死は評価されない」のだ。

日本は昭和以降、おかしな「勇」をもって戦場に向かった。「武士道」の「勇」ではなかったことが残念である。

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武士道1「義」

自分に課題を課すつもりで、武士道を気まぐれにまとめていきたい。

武士道は仏教からは平穏心・運命への服従・生に執着しないことを、神道からは忠誠・祖先崇拝・親孝行を、儒教からは道徳的な面での影響を受けている。

「義」は武士の掟で最も厳格な教え。「義士」という言葉が使われる所以である。その義という掟は、陰険なやり方と不正な行いを武士が最も嫌う心より発生している。悪賢い詐術や虚偽が戦略として通用した時代の、誠実な男らしい徳である。これは学問や芸術を極めることより評価されるべきこととしている。

しかし、この「義」は義理の義と勘違いされる。義理の本来の意味は、「義務」である。「正義の道理」としての「義理」。「義」は、その「義理」=「正義の道理」を行わせるための権威であり、道徳の厳格な監督者となる。

武士道の火付け役となった映画「ラスト・サムライ」は、その中で描かれる「義のために戦い心でいく武士」によって、武士道の「義」を考えようとする作品となっている。

果たして「義」という掟を、「陰険なやり方と不正な行いを最も嫌う心」から、学問や芸術を極めることより評価されるべきこととして、教育を行っていただろうか、と振り返るのである。

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